【翻訳は伝聞?】翻訳ひとつで変わってしまう作品の印象

近々日本で公開される『バーバラと心の巨人』という映画のポスターが、本国と日本で全然違っていると話題になっていた。

確かに全然違う。この2つのポスターがシリーズ物、あるいは別の映画と言われてもそんなに驚かない。同じ映画の広告とは思えない。

オリジナルはガッツリとしたバトルものという感じ。日本版は精神にフォーカスしたような映画という感じ。『ソフィーの世界』的な。見てないけど。

この落差は結構激しい。ちなみに僕はこの2枚のポスターをみると日本版の方が見てみようかなという気持ちになる。

オリジナルは良くありそうなアクション映画という感じ。僕はアクションはほとんど見ない。従ってどうせ見るならどんな映画かポスターではわかりにくい日本版の方だ。

そもそも原題と邦題の違いたるやすごい。シンプルな『I KILL GIANTS』に対して、『バーバラと心の巨人』。ここまで違うのかと。

 

翻訳はここまで変えている

今日たまたま見たテレビで、芸人のチャド・マレーンが翻訳の仕事をしているという番組があった。オーストラリア人の彼は吉本の映画やお笑い作品などを中心に英語に翻訳してるらしい。

日本のお笑いは世界で人気なようで、この仕事がかなり繁盛しているのだとか。その様子が興味深かった。

翻訳というのは単に日本語をそのまま英語にしたものではないらしい。と、なんとなく知ってはいたけれど、ここまで違うものかと驚いた。

 

その番組でやっていたのは映画『火花』のワンシーン。芸人のやりとりで、「なんで俺を西郷隆盛やと思ってんねん」みたいなツッコミに着地するいじりがあるシーンだ。

日本人なら大して歴史を勉強していなくても、あの銅像とともに顔くらいは思い浮かぶ西郷隆盛だから成立するボケとツッコミのやりとりだった。

西郷隆盛は日本人にしかわからない、とまでは言わなくとも、日本人に伝わって海外の人には伝わりにくい。なのでそのまま翻訳すると笑いが減ってしまう。

これをチャドは海外向けに、西郷隆盛からカーネル・サンダースへ変える。人が変わるのでボケもツッコミも全て変わる。置き換えっちゃ置き換えるだけなのだけど、言葉はまるまる全て変わるのだ。例え話を考えるときに使う脳が動いていそうな感じだ。

意訳というやつだと思うけど、翻訳というのはここまで変えるものなのかと驚いた。

 

翻訳は伝聞?

もう、翻訳というのは、「オリジナルの話を他人から聞いた」というようなレベルなんじゃないかなと思った。伝聞と変わりない気がするのだ。

 

海外の映画や本は翻訳されている。それはオリジナルで存在するものをさらに翻訳者というある一人の個人の目線で書き換えられたものだ。

考えてみれば翻訳とはつまりそういうことで、当たり前なのだけど僕は普段そういうことを思わずに日本産か海外産か、気にせずに映画とか本とか読んでいる。

だから作品の評価(なんておこがましいけど)など考えるときにすぐに作家なり監督なりに直結して考えるけど、翻訳された作品はそこにプラスして結構な割合で翻訳者の力も関わってくるのだなと改めて思った。

 

翻訳されたものはそもそもオリジナルじゃなく、僕たちが見ているのは誰か個人の伝聞なのだ。純度の高いものは知らない状態なんだなと。

もちろん翻訳が悪いものではないし、わかりやすくしてくれているからこそ楽しめるのだけど、英語ができれば2度おいしいんだろうなあと自分の学のなさにちょっと残念な気持ちにもなった。

そして昔読みくらべてみようと思って買った『ライ麦畑でつかまえて』と『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が、まだ開かれぬまま本棚に眠っていることを思い出した。