ツイッターがネットニュースの切り取り文化、行間の読めない想像力のなさを生んでいる

ツイッターといえば140字でネットの海に自分のつぶやきを投げることができるサービスだ。日本語だと漢字が一文字でも意味をなすので、140字という限られた文字数でも、つぶやきというよりは結構意味のある文章をかけたりする。というわけで世界的に見てもツイッターは日本で盛り上がっている。

そうした中で今日はこんなtogetterを発見。

togetter.com

例えば「今週は暑かったのでうちの会社はサンダル出勤もOKだった」という呟きが拡散されると
「何故今週だけはOKなんだ?」
「サンダル無い人は来るなって?」
「暑いならともかく基本はNGだろ」

といった”文字は分かるが文は読めない”人が必ずいて、国語力が無いと無駄に苦労するよなと感じます…

”文字はわかるが文章は読めない人”というのが言い得て妙だなと思う。

ぼくは実際ツイッターをコミュニケーションとして使っていないからわからないけど、何と無くネットの炎上とか2ちゃんの意見とか見ているとたまにちんぷんかんぷんな指摘をしているものがある。それはつまり”文字はわかるが文章は読めない人”が行っているものだと思う。そういう風に考えると理解できる。

彼らは文字、単語に反応しているのだ。

 

普通に考えれば「暑いから今週サンダル出勤OKになった人」の業種もわからないし立場もわからないので、このつぶやきを見てもなんら思うことはない。まあ「柔軟な会社で羨ましいなあ」くらいだろうか。つぶやきというのはそういうものである。

そんなにこう、この意見に対して絡むというか強い意見は自分の中に生まれない。なぜなら実際のところはわからないからだ。いろいろな経緯があって戦った結果サンダル通勤を獲得したのかもしれないし、社長と2人だけの友達のような人間関係の会社かもしれないし、何もわからない。ただ、今週は暑かったからサンダル通勤を会社が認めてくれた、というだけだ。

にも関わらずツッコミを入れたい人というのはつまり単語に反応しているだけの人なのだろう。自分という存在だけがあって、そこにそぐわないものがあれば即座に「違う」と反応しているのだろう。他者への想像力がないのだ。人と人は違うということがわかっていないのだろう。

 

ツイッターというツールの特徴は短い文章というのがあるけど、その弊害でもあるのかなあと思う。短く簡潔にまとめている過程でわかりやすさは生まれる一方で細かなニュアンスは失われる。わかりやすく簡単なものになって行く過程で「行間を読む」という作業がなくなってしまったんじゃないかと思う。

ネットニュースの切り取り文化なんかも同じような現象が起こっている。タイトルだけに反応して、批判を繰り返す。記事をよく読んで見たらそうではないということが多い。このよく読むというのは実際面倒臭いことなので、タイトルだけ読んで反応しやすいところだけ反応しているのだ。

 

こういうことをしてしまう人というのは、そもそも鬱屈したものがあって、なりふり構わず批判したがるような人たちのような気がするから、このツイートをした人のように早く幸せになってください、としか言えない。