『シン・ゴジラ』は「ゴジラ?どうせ怪獣映画でしょ?」と思っている人にこそ見て欲しい映画

僕は『シン・ゴジラ』を多くの人に見て欲しいと思っている。とりわけ「ゴジラなんてどうせ怪獣映画でしょ、子供向けでしょ」と思っている人には特に見てもらいたいのだ。そういうふうに安易に遠ざけてしまっては勿体ない作品だからだ。

 

ポリティカル・フィクション

シン・ゴジラ』では、ゴジラの存在以外は極力リアルに描かれているのがポイントだ。現実を超える科学力の爆弾は出てこないしメカゴジラとかなんとか戦隊とかファンタジーな兵器は一切出てこない。ゴジラという存在以外は現実なのだ。

シン・ゴジラ』は災害に現実的に対応する政府がメインの映画なのだ。これはポリティカル・フィクション(ストーリーを表現手段として政治を語るもの)というものらしい。

<以降ネタバレあります>

 

災害に立ち向かう想像力

災害というと東日本大震災が思い出される。蒲田くん上陸の時の川の氾濫や除染のシーンなどあの震災を思わせるシーンが多い。

ゴジラ冷温停止させるために使われたのはポンプ車である。あれを見ると福島第一原発の温度を下げるために一気に福島へ派遣されたポンプ車を思わせる。

そしてゴジラは一応冷温停止する。東京のど真ん中で。『シン・ゴジラ』では、ゴジラの存在を受け入れて復興していくという道が取られる。

これは爆発して停止した福島第一原発が東京のど真ん中にあるようなものなのである。

とかいうふうに、ここで文章で書いてしまうと陳腐なのだけど、映画で見ると、2時間に渡るリアルな映画の結末がこれ、というところに強いメッセージが感じられるのだ。

見ているうちに、あの原発事故が都内であったら?廃炉まで何10年と続く原発が都内にあったら?と色々と考えることになる。

現実にはゴジラなんていないけど、現実にもある災害と向き合う想像力がつく。

 

忘れていたことを思い出す

僕は関東圏の人間であの震災の被害もあったし風向きによって放射能の影響のあるいわゆるホットスポットに住んでいる人間だけど、あの震災のこと、福島第一原発事故で経験したことを忘れていた。この映画は2016年公開、震災からたったの5年後なのに。

「一定の線量を浴びれば子供が作れなくなる体になる」ということを忘れていたのだ。これは物語にとって重大なテーマになっている。

日本の最後の一手、ヤシオリ作戦時に、主人公矢口は最前線で指揮をとった。そりゃあ責任者で現場での早い判断が必要だから当然だろと思うし、映画の主人公だから当たり前だろとメタ的にも思うけど、あそこに立つということはつまり、子供が作れない体になるということなのだ。

二世議員である彼にとって子供が作れないというのは(誰でもそうだけど)重大な決断である。だからこそあの最後のヤシオリ作戦の決断の意味は重くなるのだ。矢口があそこに行って現場判断をしなかったらヤシオリ作戦はうまくいっていなかっただろう。

矢口の先輩でライバル政治家として描かれる竹野内豊演じる赤坂はたたき上げで身一つで政治家になった人間だ。でいて周りを鑑みて狡猾に立ち回る才能を持った人間である。一方矢口は2世議員。恵まれた自分の立場でありながら、周りとの協調は重要視せず、自分の正義感を信じて動く。

これ、普通は逆である。というかねじれ現象だ。どちらかといえば主人公タイプは赤坂で、なんのコネもなく成り上がり自分の正義感を信じて政治家になる。ライバルが矢口で2世議員として恵まれ、職業政治家のような存在。このように書くほうが視聴者は感情移入しやすい。少年ジャンプ的だ。

ここをあえてねじれさせたのは、「子供ができなくなるにもかかわらず、ヤシオリ作戦の現場指揮に踏み切った」という矢口の決断がいかに重要だったか、ということを描きたいがためではいか。

自分のことのように書いてしまったけど、これは岡田斗司夫が言っていたことだ。初見の時は僕もなんで矢口が2世議員で赤坂がたたき上げなんだろうって引っかかっただけだったが、岡田斗司夫の解説を聞いて納得がいった。

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おわり

とかいう想像力は『シン・ゴジラ』のような良質なフィクションによって与えらえる。考える刺激になるし、考えることは大切なことだ。だからこそ震災、福島第一原発事故を経験した日本人は見た方がいい映画だと思うのだ。

作中では冷温停止したゴジラが再び動き出したとしたら3526秒後(約1時間後)に核攻撃という国際的な取り決めが行われ、日本はそれを承諾している。

いつ爆発するかもわからない原発(と、東日本大震災でわかった)が世界にあるというメッセージとも取れる。