「村上春樹の小説はなんのドラマも起こらない」とわかっているのになぜか読んでしまう

僕はたまに村上春樹の小説を読む。いまだ読みきっていない『1Q84』を3ヶ月に一回くらい読む。

 

読みかけの『1Q84

普通の小説だったら続きが気になるから、読みきるまでに次の作品に手を出したりはしないけど、村上春樹の場合は放置して次に行ってしまう。特に『1Q84』は長いし。

というわけで未だに『1Q84』を読みきっていないわけだけど、この小説は確実に自分の楽しみとして存在しているし、好きな小説だ。ただ、何が好きか言葉で言えないからややこしい。

どう好きなのか上手く言えない。「村上春樹の小説はなんのドラマも起こらない」とわかっていても”読んでしまう”という現象があるだけなのだ。

 

村上春樹は文章がうまい

村上春樹をなぜ読んでしまうのか?」、単純に捉えてしまえば”文章がうまいから”ということになるのだろうと思う。村上春樹は文章がうまいという言葉はよく聞く。

何を持ってうまいのかはよく分からないけど、小説なんか読みきったことがない中学の頃の僕が読み切れるぐらいには優しい文章というか柔らかい文章というか、とにかく読みやすい文章であるという感じがする。

小説というのは自分が考えもしなかった物語との出会いだったり、すごいアイディアがあるミステリ諸説とか、感動できる人間ドラマとか、共感できる日常とか、色々あると思うのだけど、そう言えば村上春樹の小説にはそれらは何もないと思う。

だけど最後まで読ませる。読んでいるときは夢中になれる。学びとか教訓とか、何も残らないけど「読んでよかった」と思える。やっぱり文章がうまいということなのだろう。

 

村上春樹という景色を見にいく

僕はなぜ村上春樹を読んでしまうのだろう?考えてみればこれは村上春樹という景色を見にいくというニュアンスだと思う。

休日に繁華街とか遊園地とか高いディナーとかに行くというようなイベント事ではなく、ただ散歩をするように自然の景色を見にいくような感じだ。

「この小説には何が書かれているんだ?」というようなテンションじゃない。自然の空気を吸うように読む感じだ。

村上春樹の小説のいろんなメタファーとか、世界の全てをわかている感じの主人公とか、熱を帯びそうで帯ない展開とかに触れると、なぜか心が安心するのだ。

村上春樹は比喩表現が独特だ。普通によくある日常を独特の感性で表現している。それについて「そうか、こうやって捉えることもできるのか」と新たに感じることもある。

よく見ている日常の景色の見方を少しだけ変えてくれるのだ。それはほんの些細なことだ。いつも見ている景色を休日改めて見て、何か少し発見するような。

 

僕が村上春樹の小説を「なんのドラマも起こらない」とわかっているのに読むのは、物語を求めているのでなくて村上春樹という景色を求めて読んでいるからなのだ。