人見知りの話。普段から当たり障りのない会話をすることの重要性

声をかけるのは簡単。
一度しか会わない関係性なら簡単。
1対1の会話ならできる。
それでも僕は人見知りだという自覚がある。

最近、「人見知りは子供なだけ」というような話を耳にした。
これは確かに正しい。
自分から事前の言い訳のように
「人見知りなんで」というのは
もう大人になれば狡い発言だと思う。

「自分は人見知りだ」と先に言ってしまうのは
相手に依存しているのだ。
お願いしますよ、人見知りなんで
と言っていることと同じで
お願いしますよ、気を使ってください
と自ら言っていることと同じなのだ。


僕はもう自分から人見知りだとは言わないようにしている。
けれども人見知りではある。
未だに悩んでいる。

僕がなぜ未だに人見知りなのかと言うと
自分の連続する日常に他人が入ってくるのが面倒臭いからだ。
広く浅く人と仲よくするというのは
かなりのエネルギーがいる。
それはできないなと思うのだ。

けれども、ある程度の人当たりの良さは必要だ。
広く浅くの精神は大切なのである。

 

僕の会社では、人と関わらず駒になり
黙々とただノルマをこなすだけでも仕事に支障はない。
きちんと成果をあげればまったく問題ない。
とはいえ、挨拶以上の日常会話というのは必要である。
普段からコミュニケーションをとっておかないと自分の立場はまずくなる。

それはなぜか?

普段から喋らないとたちまち「何を考えているかわからない人」になるからだ。
周りから「普段話さないあの人は何を考えているんだろう」と目をつけられる。
そりゃそうだ、挨拶くらいしかしないんだもの。

普段から喋らない人がたまに発言すると
ゆっくりを間をとって振りを効かせたボケのように
発言の重さが増してしまうのだ。
普段喋らないあいつが発言した、ということで
何か重大な宣言のようになってしまう。
ただの気分的な軽い発言だったとしてもだ。

普段喋らないということは
その人の情報量は少ない。
少ない情報からその人を判断するしかない。
人は判断することが好きだ。
判断して自分の中で理解しないと不安なのだ。
というわけで軽い一言だったとしても
少ない発言が周りに与える印象は強いのだ。


僕はこのことに気がつくのには大分時間がかかった。
お子ちゃまである。
情報が少ないならば少ない情報で物事を想像するのが人間だ。
つまり、問題は普段から情報を与えていない僕の方の問題ということだ。
本当は、日々挨拶以上の当たり障りのないジャブのような会話をし
自分が普通の人間である、あなたと何も変わらないよと示す必要がある。

そうすることで自分の意見であるストレートが
周りの人にも簡単に理解されたりする。

 

ここまでは僕にもわかっている。
でも、
普通に内容のないことを喋ったりできない。
みんなが笑っている、つまらないことで笑えない。
そういうことができない。
さらっとした会話にならない。
仲のいい人となら問題ないんだけどなあ。

人見知り克服の旅は続く。