社会は今僕のものだけど、いつかは離れていく

「2100年の科学」みたいなタイトルの本を見かけた。僕はこの本を読んでいないけど、2100年と言われると色々と考え込んでしまう。

当然、僕はいない世界だ。

 

4年後の東京オリンピックとかは普通に想像できるし、2045年あたりにやってくると言われている、コンピューターが人間を超える技術的特異点なんかは、いつかは確実にやってくる未来として期待と不安を持って想像できる。

けれども、2100年となるともうSF小説の世界であるように感じてしまう。

 

とはいえ、今生まれたばかりの自我も持たない赤ん坊なら2100年まで生きるだろう。その子は今はまだ自我はないけど、あと20年もすればバリバリと仕事をこなし、社会の一端を担っていくだろう。

そいういうことを思うと、今僕は社会に属してはいるけど、いつかは出て行くんだなとしみじみと思った。

 

いつかのビートたけし松本人志の対談の話を思い出す。

たけしが当時の売れている若手芸人について「まだ自分でもわかる(どういう種類の笑いなのか)からいいなあと思った」というようなことを言っていた。

その、一歩離れた感覚に驚いたことを覚えている。たけしは自分が第一線から離れていくことを自覚しているのだ。その上で、「まだ自分は最先端を理解できているからよかった」という感覚で喋っていた。

 

そういう風にして、いつか人は社会から離れていくのだろう。ビートたけしのように一世を風靡しても、そうでなくても。いつの間にか順番がきて、社会を離れていくのだ。

 

 

それでいて、自分が社会を離れていくことがわかっているから、何か後世に残したいという風に考えるようになるのだろう。

本能的には、自分の血の繋がった子供を残すということになる。動物的に正しい。子孫繁栄の本能だ。

社会的には、技術を残すとか会社を残すとか人を育てるとか。社会貢献とか言われると、ただの理想を語るきれいごとだなとか思ってしまうけど。実際にはみんな社会貢献をしているし、正しいことだ。

人として、こういう連鎖がやっぱり健全なのだ。

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